■精神分析?
精神分析は科学的研究の一つの方法であり、また患者の精神生活における無意識の役割を問題にする分野でもある。
精神分析学が主として基盤にしているのは、分析の場において、転移のコンテクストを守りながら患者の自由な連想を解釈するという行為である。
フロイトは「精神分析学」という用語を、実験室における化学分析の過程とのアナロジー(類推)から導入した。
科学者と同じように、分析医は患者の徴候を脱構築して、それを構成部分に解体する作業に従事する。
科学者が根源的な物質、科学「元素」を塩から分離するのと似ている。
(青土社 現代思想芸術事典)
■フロイト、ラカン、ジジェク
▽フロイト、エディプスコンプレックス
子供が母親との二者関係から、権威者としての父親を含む三者関係へと移行していくことを理論化するのに使われる。
全ての子供はペニスを持って生まれるが、女性にペニスが無いのは、ペニスを持つ女性に嫉妬した父親が罰として奪ったからだと考える。
男児は去勢の恐れを感じて母親との関係を断つ。逆に女児はペニスを求める願望に代わって、赤ん坊を欲しがる欲望を持つようになる。
▽鏡像段階、想像界、象徴界、現実界、大文字の他者
▽仮想化しきれない残余
■ラカンとフリードリッヒ・キットラー
グラモフォンは現実界、サウンド
フィルムは想像界、イメージ
タイプライターは象徴界、テキスト
▽テキストについて
手書きによる書記からタイプライターへの転換があり、さらにその延長にコンピュータによる書記がある。
それは単にワードプロセッサによる文書作成というだけではなく、むしろコンピュータのアーキテクチャやプログラミング言語を含むような、
一般化され形式化されたテキスト観が前提になっている。
つまり、ラカン的な意味での象徴界が言語と法と命令の領域だとすると、コンピュータの基本原理は象徴界に位置づけられているという解釈。
象徴界のマシンであるコンピュータにおける法と命令を内在的に権力分析する論考が「ドラキュラの遺言 ソフトウェアなど存在しない」の第3部にあたる。
映画誕生から100年を経過したわれわれにとっては、映画の見方が100年前の近代人と同じままであるはずもない。
テキストからイメージへの関数が実装されていたのが19世紀だとすると、われわれは映画におけるイメージをテキストに変換している。
映画におけるほとんどのイメージは記号として解釈されている。
しかも19世紀のように人間の精神や魂を素朴に信じているわけでもないとしたら、イメージはもはや心的過程のシミュレーションではなく、そのパロディというべきだろう。
19世紀がテキストを信じていたからイメージを見た(そして信じた)時代だとすると、20世紀はイメージすら信じない、しかし信じたふりをしている時代なのだ。
■大きな物語、メタの自覚、ポストモダン
▽ジャン・フランソワ・リオタール「ポストモダンの条件」
大きな物語(政治・思想・芸術)の終焉=ポストモダン(記号 ・象徴の大量消費、過度に一般化される事物)
民主主義と科学技術の一つの帰結ともいえる
▽東浩紀「動物化するポストモダン」
データベース世界、物語消費(ノベルゲームにおける大きな物語と小さな物語の解離的感覚等)
▽ソフィ・カル「本当の話」
自分自身についての考察、面識のない男性を尾行した記録と写真「ヴェネツィア組曲」
追う者と追われる者の時間と意識、探偵を雇って自分を尾行させる「尾行」
▽会田誠「青春と変態」
男の子が変態的な日記を綴ったノート、最後はそのノートを好きな女の子に渡すという設定
▽ウラジーミル・ソローキン「愛」
物語を成立(あるいは不成立に)させる文章構造自体を表現の軸にした、文学の冒険シリーズ
■参考作品